ニューヨークで過ごした1970年代

『ジョン・レノン、ニューヨーク』ニューヨーク時代のジョンに焦点を絞った作品

ジョン・レノンがニューヨークで過ごした1970年代

追い出す気なら暴れてやるさ。自由の女神が招いてくれた。
最高の街だぜ。ニューヨークシティ。 …ジョン・レノン

1971年9月から1980年12月、ジョンレノンが愛した街であり幸せな時代を過ごした約9年間はニューヨークでした。今もアーティストに大きな影響を与える20世紀の大スター『ジョン・レノン』。そのジョン・レノン没後30周年と生誕70周年を記念して制作されたドキュメンタリーが【ジョン・レノン、ニューヨーク】です。

ジョン・レノン、ニューヨーク

ザ・ビートルズ:The Beatlesは1960年代に登場して、本国イギリスはもちろんですが日本でも熱狂しました。今あるポップミュージックへの道筋を切り開いたといっても過言ではないほど、ミュージックシーンに大きな影響を与えました。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは、自分で曲を書くようになったときに、一番影響を受けた人物として、ジョン・レノンの名前をあげています。

ザ・ビートルズが解散する原因になったのは、ジョン・レノンが付き合いだしたオノ・ヨーコじゃないか?!とかなり長い間言われ続けていましたが、2012年10月にポール・マッカートニー自身が、「ヨーコがビートルズをバラバラにしたんじゃない。ビートルズは自らバラバラになった」と発言したことで、ようやくオノ・ヨーコがビートルズの解散の原因となったという論争に終止符が打たれました。

ビートルズが解散してから、1971年からジョン・レノンとオノ・ヨーコは活動の拠点をイギリスからアメリカのニューヨークへ移します。ニューヨークへ活動の拠点を移してからのジョン・レノンはどのような生活を過ごしていたのでしょうか。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが移し住んだアメリカではベトナム戦争の真っ最中でした。


ポールとジョンの関係

ビートルズが解散した直後は、それはポール・マッカートニーもジョン・レノンという2人だけではなくマスコミもファンも二人の確執は周知の事実でもありました。ビートルズが解散した後は、お互いがお互いの楽曲の中で中傷しあうという、とても中傷楽曲大作戦とでもいえるほどめちゃくちゃ仲が悪い状況でした。ビートルズの中でも、他のリンゴ・スターやジョージ・ハリスンの2人とは違ってジョンとポールはそれぞれが楽曲を作り、ツインボーカルでもあり2人がザ・ビートルズの楽曲のほとんどと言っても良いほど沢山の楽曲を作ってきただけに、それぞれ個性が突出していたからこそ、解散してからもお互いが反目しあう状態だったのではないかと思います。

ニューヨークに拠点を移したジョンの元に、ポールがイギリスからニューヨークに電話をすれば、ジョンは「おまえがオレに何の用があるんだよ?」と言えば、ポールはポールでジョンの「Yeah.Yeah」という言葉遣いにイラッときたのか「そんな刑事コジャックみたいな言い方すんじゃねー!」と、いわばニューヨークにかぶれたアメリカ発音してんじゃねーぞ。と言い返すという、大人とは思えない会話をしていたほど悪化していました。

1970年代中頃には、ビートルズに関連するこじれていたことから訴訟問題になっていたものが、解決へと向かっていく中でだんだんジョンとポールの関係は良くなってきました。やはり時間がわだかまりを解決していったのでしょうか。お互いがそれぞれ自分のやりたい音楽をして、離れた場所でお互いの活動が良い刺激になったのでしょうか。70年代の中頃には、ポール・マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」でアメリカツアーを行ったときには、ジョン・レノンのところを訪れたりといったこともあって互いの親交を取戻しています。

そして親交を取戻しているだけではなく、ジャム・セッションも行っています。1974年にスティーヴィー・ワンダーたちとともに、ロックンロールのスタンダードナンバーの「ルシール」や「スタンド・バイ・ミー」を一緒に演奏した音源も残されています。

ジョンとポールが最後にあった日

ジョンとポールが最後に会った日、それは2人で盛り上がった日でもあります。2人でテレビ番組のネタを見ていたときのこと、テレビでは「もしサタデー・ナイト・ライブにビートルズを出演させるとしたら、ギャラはいくら払う?」というネタでテレビでは「一流クラスの標準のギャラで3200ドル」という話をたまたま目にして、「よっしゃ~!ダウンタウンならすぐ近くだから、これから2人で乗り込んでやろうぜ!」と大いに盛り上がりました。もちろん実現はしていませんが、この日のことをポールは「昔に戻ったみたいでとっても嬉しかった」と語っています。

ジョン・レノンもポールには特別な感情を持っていたようで「ポールの悪口を言っていいのはオレだけだ。他の奴がポールの悪口を言うのは許さない」と、アメリカ人アーティストでジョン・レノンとも共作ているハリー・ニルソンや、一時失われた週末を送ったジョンの愛人でもあり秘書でもあるメイ・パンにも、ポール・マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったといいます。

そしてジョン・レノンは自分の命日となった1980年12月8日に行われた取材で語っています。「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった。」この言葉がジョンの思いを全て凝縮しているのではないでしょうか?!


失われた週末

映画『ジョン・レノン、ニューヨーク』でも、とても多くの時間が割かれて取りあげられているのが「ロストウィークエンド:失われた週末」です。今までジョン・レノンとオノ・ヨーコが別居していたこの期間は『アルコール三昧でお酒に溺れていたジョン・レノンのロサンゼルス生活』ぐらいしか知られていませんが、【ジョン・レノン、ニューヨーク】ではかなり詳しく『失われた週末』の期間が取り上げられています。

『失われた生活』は、ジョン・レノンが1973年9月からオノ・ヨーコと別居してロサンゼルスにチャイニーズ系のメイ・パンと一緒に暮らしていた時代です。オノ・ヨーコがジョン・レノンとの生活の中で閉塞感を持っていたようで、ジョン・レノンがオノ・ヨーコから別居を言い渡されます。

元々メイ・パンはオノ・ヨーコのニューヨークでの個人秘書です。その個人秘書のメイ・パンがジョンがロサンゼルスへ移るときに、ジョンのお世話係りとしてメイ・パンを同行させています。『ジョン・レノン、ニューヨーク』の中でメイ・パンは、「彼女(オノ・ヨーコ)が、私にジョンと別れたの。って言ったけど、なんでそんなことを私に言うのかとわからなかったわ」と言っていますが、それは違うでしょう。オノ・ヨーコの秘書としてオノ・ヨーコはどんな人かよく知っていたはず。その彼女がジョンがロサンゼルスに移るときに「ジョンとは別れたの」ということは、あなたがお願いね。と言われたのも同然だと理解していたのだと思います。

そしてジョン・レノンはロサンゼルスに移り住み、メイ・パンもジョンの恋人として一緒に暮らします。「失われた週末」といわれるロサンゼルスでの生活は、アルコールにまみれた生活だと今まで言われていましたが、ロサンゼルスの太陽の気持ちの良い気候の中で充実した日々を送っていた様子が映画の写真からも伺えます。ビートルズのメンバーだったリンゴ・スターや、ジョン・レノンがプロデュースも手がけたハリー・ニルソンたちだけではなく、ミック・ジャガーにデヴィド・ボウイもこのロサンゼルスのジョンの元を訪れています。そして、ポール・マッカートニーやポールの妻リンダも時々ロサンゼルスのジョンの元を訪れてします。

そして音楽関係のメンバーだけではありません。ジョンは息子のジュリアンとも再会を果たしています。ジュリアンはジョン・レノンと前妻のシンシアとの間に誕生した息子です。前妻のシンシアも一緒に尋ねたこともありますが、ジュリアンはたびたび一人でジョンの元へ遊びに来てジョンと一緒に楽しく過ごしていた様子がメイ・パンが撮影した写真に残っています。ジュリアンが父親のジョンのギターを弾いたり、ジョンと同じポーズをしてベッドに横たわったり、今まで父親のジョンと過ごせなかった時間を取戻すかのような生き生きとした嬉しそうなジュリアンの姿が写真に映し出されています。

ジョンとポールのツーショット写真があるほど、この時期はジョン・レノンにとって「失われた週末」ではなく「実り多き楽しい時間」を過ごしていたことがわかります。ジョン・レノン自身がオノ・ヨーコとの別居期間でもあり、ロサンゼルスで暮らしていた時期を「失われた週末」と読んでいるので、久しぶりに再会したジュリアンとの楽しい時間を過ごしたり友人と過ごしたり充実した楽しいLA時間を送っていますが、もちろん音楽活動もしています。確かにこの時期は、ジョン・レノンの音楽的な才能がちょっと翳っていた時期と重なってしまいますが、それでもジョンは活発にそして意欲十分に音楽活動を行っています。

ジョン・レノンのプロデュース

ポールの代わりにビートルズに入るのでは?!と噂されるほど、ジョン・レノンが高く評価していたハリー・ニルソンのアルバムをジョン・レノンが全面的にプロデュースしていています。1974年3月から『Pussy Cats』:プシー・キャッツには、リンゴ・スターもさんかしています。そして同じく1974年に、ジョン・レノンがセルフ・プロデュースしたアルバム『Walls And Bridges』:「心の壁、愛の橋」 を発表しています。このアルバムはジョン・レノンの最高傑作とローリング・ストーン誌でもとても高く評価されたアルバムで、『イマジン』以来の、ジョン・レノンのソロとして2作目となる全米1位を獲得しています。そして、このアルバム収録曲「Ya Ya」では、当時11歳のジュリアン・レノンがマーチング・ドラムを叩いてジョン・レオンがピアノを弾きながら歌うという即興演奏も収録されています。そしてアルバムの中に収録されている『Whatever Gets You Thru The Night』「真夜中を突っ走れ」と『Surprise,Surprise』「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演しています。

エルトン・ジョンとの共演

『Whatever Gets You Thru The Night』:「真夜中を突っ走れ」は1974年に発売されえたアルバムの中に収録されている楽曲ですが、幅広いミュージシャンとの交遊でしられるジョン・レノンらしくとても豪華なメンバーです。ハリー・ニルソンはもちろんのことですが、ニッキー・ホプキンス、キース・ムーンもバンドとして加わって演奏しています。そしてこの曲では、なんといってもエルトン・ジョンがピアノとヴォーカルで参加していて、ジョン・レノンとのダブルヴォーカルというとても豪華な曲になっています。

ジョン・レノンはこの曲は売れないと思っていたらしく「何万年かかっても売れない。1位になんてなれっこない。もし1位になったらコンサートに参加するよ」と冗談での約束をエルトン・ジョンと交わしました。ところがジョン・レノンの予想に反して、この曲は全米ナンバー1を獲得しました。ジョンはエルトン・ジョンとの約束通りに、1974年11月29日に行われたエルトン・ジョンのマディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートに参加しました。


失われた週末の終止符

エルトン・ジョンのコンサートは、マディソン・スクエア・ガーデンです。ジョン・レノンはロサンゼルスから、エルトン・ジョンのコンサートに出演するためニューヨークに行きました。エルトン・ジョンのコンサート会場には、オノ・ヨーコも来ていました。映画の中で、ジョンと久しぶりの再会をオノ・ヨーコは【偶然】だと話をしています。

「古着屋に入ったら、とてもステキなシルクのアンティークの男物パジャマが売っていて。そうだ!このパジャマを買えば、きっとこれにまさにぴったりの誰かいい人が現れるかも」と思ってアンティークパジャマを購入して、エルトン・ジョンのコンサート会場で再会して、結果そのままロサンゼルスからニューヨークに戻ってきたジョンにそのパジャマをを着せてみると「驚いたことにぴったりだった」と語っています。

結果ジョンの言う「失われた週末」は終わり、メイ・パンと暮らしたロサンゼルスからふたたびオノ・ヨーコとの暮らしを選んだジョン・レノンは、別居を解消して再びニューヨークでオノ・ヨーコとの暮らしが始まりました。1973年11月末にエルトン・ジョンのコンサートに出演して、オノ・ヨーコと再会して翌年1974年1月にはニューヨークで生活を共にするようになりました。

メイ・パンとの関係よりも、オノ・ヨーコの元へ戻ったことでもありロサンゼルスでの生活に終止符を打ったことになります。

そして1975年10月9日、ジョン・レノン35歳の誕生日に二人の間に息子のショーン・タロー・オノ・レノンが誕生しました。


イマジン・ピース・タワー

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    ソロとしての楽曲

    ジョンとヨーコ

    ジョンとヨーコ

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